「古(いにしえ)にならえば今に通ぜず、雅を選べば俗にかなわず」
日本歯周病学会での講演に関する情報を坪井先生よりいただきました。
詳細は司馬遼太郎の「世に棲む日々(一)」文集文庫P73,P87を参照とのことです。
吉田松陰が平戸に留学中に読んだ清の魏源の著作「聖部記附録」:
その意味は
「古学ばかりの世界に密着しすぎると、現今ただいまの課題がわからなくなる。また、格調の高い正しい学問ばかりやっていると、実際の世界の動きにうとくなる」
司馬遼太郎 世に棲む日々より
この言葉は、私たちの世界を正確に反映しています。
「基礎医学ばかりの世界に密着しすぎると、現今ただいまの臨床がわからなくなる。また、エビデンスの追求ばかりやっていると、実際の患者の立場にうとくなる」
となりましょう。恐ろしいほど、マッチしませんか?
吉田松陰.com http://www.yoshida-shoin.com/より引用
松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、安政3年(1856年)8月から安政5年(1858年)12月までのわずか2年余りに過ぎません。しかし、その短い期間に、松陰は自分の信念を塾生たちにぶつけ、しかし一方的に教えるのではなく、塾生たちと一緒になって問題を考えていった。講義は室内だけでなく、農作業を共にしながら行なわれるなど、心身両面の鍛錬に重点が置かれたという。
わずか2年余りの活動だったのですが、松陰の教育を受けた門下生達は、後に京都で志士として活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たすことになります。
久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山形有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖など枚挙に暇がありません。
松蔭の松下村塾と比較するとあまりにも稚拙ですが、私が主宰していたAPI-Japanというスタディグループは実質6年(2003年〜2008年)間活動しました。その間には、日本歯周病学会、日本臨床歯周病学会、OJ、3i Japan、BIOMET 3i Symposium(Chicago)、近畿北陸地区歯科医学大会、SJCD(東京、大阪)、KIDS、歯水会、大阪大学などでの講演や発表、ザ・クインテッセンス誌の年間連載に代表される執筆活動、歯周病・インプラントに関する講習会主催など、さまざまな活動を行ってきました。
現在は、メンバー全員の意思として、全体の活動は行っておりませんが、個々にグループを作り活動されているようです。私が提唱した「Back to the real basics and go to the future」、「科学的根拠に下支えされた患者本位の医療」という概念が、たとえ風雨にさらされ、厳しい環境に置かれても、どこかで生きながらえ、どこからか新しい芽が出ることを願っています。
樋口一葉やゴッホなど、後の世に傑出した作品を残した人の活動は長いものではないと聞いています。人生の中で、わずか数年で全ての作品を作ったとのこと、私はその意味がとても良く理解できます。
大切な事は「長さ」ではなく、「密度」なのです。
吉田松陰は1859年10月27日、わすか30才で死刑になったのです。
辞世の句は、「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」。と言われていますが、
吾れ今 国の為に死す
死して君臣に背かず
悠々たり天地の事、
鑑照 明神に在り
という言葉を残したと言われています。その意味は、
「私は今、国の為に死ぬ。死すとも、藩主への忠義、父母への孝行を尽くして、道に反することはない。天地は永遠で果てしなく広い。神様よ、私の行いの正しいことをご覧下さい。」
実行の中にのみ学問がある。行動しなければ学問ではない。
松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことである」と言った。また「学者になってはいけない。 実行しなければならない」とも言い、学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説いた。脱藩や密航を試みるなど、実行に実行を重ねる松陰であったからこそ、若者達の心は強く揺さぶられ、惹き付けられていったのでしょう。
人の身体は滅びますが、学問は、永遠に不滅なのです。
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